土砂は多いので魚は居ないし、滝はショボイしゴルジュは大した事はない。しかし堰堤などの人工物は少なく、周辺の谷と比べて自然が残っている方で詰らない谷ではない。結局、良い沢かどうかというのは心の所作であって人それぞれなのである。まあ、取りあえず一度行ってみると良いと思う。
という、曖昧模糊な言葉で逃げた説明をしていたのでは魅力に欠け、ルートガイドとして失格である。そして私の好む科学的かつ論理的な思考に相反するのである。では何故そのような主義に反する嘘、戯言を述べたのかというと、お道化であり、ユーモアである。「あ、この人は普段と違う主張を言って変だなあ、でもそこが粋で面白いなぁ」と思ってもらいたいという野心であったのである。もし、先述の冗談が面白くないとあなたが感じたのならば、あなたにユーモアのセンスがないか、私にユーモアのセンスが無いかのどちらかである。私の科学的・論理的思考によれば後者の確率が非常に高いように思うが、あくまで私の視点なので気にしない。
先ほどの「土砂は多いので魚は居ないし、滝はショボイしゴルジュは大した事はない。」のくだりは釣り師、クライマー、沢ヤの視点で見た場合に面白くない。ということを意味している。では、この沢を地質的な視点で見たらどうだろう。
この周囲の岩は飛騨変成岩類と呼ばれ、かつて日本が大陸の一部であったころに由来するものであり、その由来となった岩はざっくり言って地球の岩石誕生の歴史に近いらしい。現在の飛騨変成岩類は堆積岩にプレートの圧力が加わったり、マグマによる熱が加わったり、溶岩に取り込まれたり、非常に複雑な成因を経ているようだ。2つほど岩の写真を
片麻岩に結晶質石灰岩(大理石)が混じったものだろうか。
写真では観づらいが石の上の辺縦に黒いシワが入っている部分が石灰岩で、その隙間に何らかの火成岩が貫入している。
この2種の岩を直ぐそばで発見し出会った時、感動に打ちのめされクラクラした。大理石は石灰岩が熱変成によって方解石の結晶となった石であり、片麻岩は元有った岩(由来は色々)がプレートの沈み込みに伴って別の石になったものらしい。ということは、下の写真の岩がプレートの沈み込みによって上の写真の岩のようになったんちゃうか。という妄想が膨らみ、時の流れとその連続性、存在の神秘に心がワープして、長大で想像を絶する自然に平伏し畏怖の念が湧き上がったのである。そしてこの上もなく僥倖な心持になったのである。ここで筆者は地質学に関しては門外漢であり、あくまで少しの知識から想像を巡らしているだけであることを断っておく。他にもこの沢ではオオバギボウシやササユリの美しい花、サワグルミの大木に出会うたびに感動に打ちひしがれ、感涙に咽ぶほどであった。
例はここまでにして、本題の視点問題に戻ろう。冒頭の通り、クライマーや沢ヤ的には面白くない沢である。しかし、遡行者が動物、植物、地質、気象etcのバックボーンがあり何がしかの比較対象を持っていたのならばどんな沢だって多様であり最高に面白いと思うのである。ある人は堰堤の機能美と建築美に打ちのめされるかもしれないし、ある人はその古びた堰堤に無常を感じ宗教的な念を抱くかもしれないし、ある人は葉を打つ雨音から素晴らしい音楽を作曲するかもしれないし、ある人はイラクサの棘の痛みに詩情を掻き立てられるかもしれない。このように自然の楽しみ方の引き出しは無限大なはずだ。なので、どの沢にせよ「つまらない糞沢だった。」という評を聞くのは寂しい。それは遡行者の感性が未熟である事を明らかにしてしまうのであって、同胞として寂しいのだ。そのように感じる人は、5.8のルートを大雨の日にタビでフリーソロオンサイトトライするような演出であれば楽しいのだろうか。あ、そういえば錫杖の1ルンゼを大雨の時に登ったら困難な面白い大滝登攀になるんじゃないかな。クリヤ谷から継続遡行とすると粋である。一緒に登ってくれる人がいたら連絡下さい。ととっと話が逸れてしまったが、つまり折角の休日はどんな場所であってもポジティブにエンジョイしたいものである。
さて、何故やたら説明が長い長文ガイドとなったのかというと、お道化であり、ユーモアである。「あ、普段と違う雰囲気で変だなあ、でもそこが粋で面白いなぁ」と思ってもらいたいという野心である。私の科学的かつ論理的思考によれば、私のユーモアセンスが無いのは必定だが、あくまで私の視点なので気にしない。
<装備>
<アプローチ>
庵谷の集落に発電所と堰堤の間で神社のある場所。それが良い目印となる。そこまで富山大学からおよそ1時間。
<装備>
特に何もいらないが、念のためロープ。あとは好みで図鑑。
<快適登攀可能季節>
6月~11月。虫が多い時期は鬱陶しそうだ。